昭和51年11月03日 朝の御理解
御理解 第24節
「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」
親が子の事を思う。子がまた親の事を思う。思い思われるこれは私は人間である以上誰しも同んなじ様な事ではなかろうか。またそれは当然な事ではなかろうかと思います。そこで信心を頂いておる者として当然の事。しかも真の信心を目指す者として当然の事。というその当然の事が、案外出来ておらんのではなかろうかと思う事がございますね。真の信心を目指しておる。その真の信心とはといつも思うておる、と自分では思うて信心を進めておるのですけれども。
なら当然の事としてなされ、なさなければならない事。当然の事だと。信心さして頂いておる者としては、当然の事だと言う様な事が疎かになっておる。そこに自分の信心を、また見当してみなきゃならん事になるのです。昨日は熊本の松村さんのところの奥さんの里の、松村さんのとこにはお婆さんになる方の十年の式年祭がございました。ほんとにもう松村さんの里の、しかもお婆さんの十年の式年祭、もう里の方でやっと仏教で、いわゆる年期年期にはちゃんとした事が出来ておる。
だからもう自分はそこから嫁に来ておるものであるから、またあちらの主人としても、もう嫁の里の事まではと言うところですけれども、真実自分達が信心によって、なら合楽に御神縁を頂いておかげを頂いておる事実。自分達ぐらいな者でもこうやっておかげを頂いておる事実。また信心が段々分からして頂いたら、やはり親を大事にしなければならない、先祖を大事にしなければならない。だから松村の家の事を、の例えば霊祭というのも、まぁこれは当然の事なんですけれども。
その奥さんの里の方のお婆さんの御霊様の、十年の式年祭をしてくれと言うのですから、やはり念の入った事である。やはりほんとに現世、まぁ言うならあの世この世を通して、合楽のご信心によって助かる事を信じ、また助かってもらわねばならんと思うから、そこの信心が段々分かってくるから、まぁ言うならば当然の事として、里のいわゆるお婆さんの式年祭もでけたと言う事になります。私昨日その奉仕をさして頂きまして、本当にあのう、まぁ縁のある限りの、例えば私の方で申しますと。
もちろん大坪の家のうからやからの御霊はもちろんの事。家内の里の御霊も、うからやからの御霊。または長男の嫁の里のうからやからの御霊。また私の母の里の池尻の家のうからやからの御霊様も、ここにご奉仕させて頂いておりますから、まぁここ世御霊世を通して拝むというだけではなくて、それぞれの御霊様の、例えば式年祭と言う様な時には、言わば私がお祭りは、まぁさせて頂くわけです。もうほんとにねこれはね、もう段々分かれば分かる程しなければおられんのです。
いわゆる真の信心を目指す者がです、本当の信心が分かり、本当の信心を持って助かって行く事がです、本当におかげと感じたらです、んなら自分だけではない魂の世界の、いわゆる親先祖も助かって貰わなければおられないと思うのは、これは当然の事だというのです。もう家内の里の御霊様はもう、家内の里の方でやりよるからと言うのではなくてね。だからその自分が本当にお道の信心によって、合楽の信心によって助かっておるとするならばです、やはり親先祖も助かって行く事を願い。
又はそれを自分のそのできる事を、喜びとしてのおかげになってこなきゃならない。本当にそうなっていき、私はお祭りを済まして終わってから、「本当ようこそ今日のお祭りができたね」と言うて、まぁ暫くお話させて頂いた事でしたけれども。ちょうどあの私の母は元浄土宗ですから、浄土宗では「くにだし位牌」というのがあり、位牌を沢山並べないであの、大きな言うならば何ちゅうですかね。まぁ仏教では「くにだし」くにだしと言いますが。あのお社をひとつですね。
その中に先祖代々からの御霊様の、言わばお位牌が一杯それに入っておるんです。センスの様じゃない違いますかね、お祭りをする様式のそのくにだし位牌をご心眼に頂いてですね、そのくにだし位牌が段々丁度、まぁあのう古事記の中にありますあの、天岩戸のあの力の強い神様がね、天照神様が中に閉じこもってしまいなさるからあの、岩をこうやってあのう押し開ける所がありましょうが。丁度あの様な感じでです、もうとても力がなからなければ、とても開けられるだんじゃない様な大きなその扉をです。
両方こう観音開きになっておるのを、片一方の方を、もう一生懸命にでもう力の限りで、ようやく開けて中に光明がバァーッと、差し込んだところを頂いたんです。と言う事はどう言う事かというとですね。私いつも申しますように。いわゆる霊界御霊の世界は、暗黒の世界だと。ですから私共がこの世にあるうちに、本気で真の信心さしてもろうてね、光を頂いてその光を持って、あの世に行かなければ、あの世には行けるところではないとこういう。
ところがねその真っ暗いところに行っておって、その真っ暗い中をもうこれが霊界というものかと言う風に思うてる御霊が、沢山あると言う事なんです。全然信心が分からんでね。魂の世界に入ってそれこそもうその真っ暗な中で、手探りでウヨウヨしておる例えば御霊が、まぁ一つ想像してみて下さい。そしてそれが当たり前だと。言うならばお釈迦様の言葉じゃないけれども「この世は苦の世苦の世界」と言われておりますがです、この世でこうした難儀が満ち溢れておると言う事は。
もう当たり前の事の様に思うておる人間が沢山あるのと同じです。もうこの世っちゅうとこは苦の世だ苦の世界だと思うとる。だからあの世で極楽行こうと思うとっても、実際が魂が魂の世界に入ってみたら、やっぱここも同じ事、苦の世苦の世界だ。真っ暗な世界だと思うて、それを当たり前のように思うておる。この世でもそうでしょうが。ただ難儀からその解脱したいとか、その難儀から助けて頂きたいとか様々努力する。
一生懸命働きそれで一生懸命、それこそ人の幸せを邪魔してでも、自分が幸せになろうとするけれども実は幸せにはなれない。それが現世だそれがこの世だ、と思い諦めておる人が沢山ありましょうが。ひとたびお道の信心をさして頂いてういう有り難い道がある。こういう幸せな道がある、と言う事が心の中にそれを感じられるようになる。昨日は森地区の信心共励会でしたが、ちょうど昨日の昼、西岡先生あてに電話がかかってきた。電話がかかってきて四十分間長々とその。
坂井さんという材木屋さん。電話が西岡先生あてにかかってきた。その中にです先日の婦人大会に始めてあちらの奥さんが参加した。そして班別懇談の時にもう、もうそれこそ何人かの方が涙を流して、本当にようこそ合楽に御神縁を頂いておったおかげで、今日こうしておかげを頂いておると言うて、それこそある人は身を振るわせながらお話をさせて頂かれたのを横で聞いておって、こっちの方が身震いが出たっちゅうんです。有り難しじゃない。信心ちゃあげんじゃろうかと思うとったとこう言うのです。
他の人は有り難い有り難いでござって、自分は言わば有り難くなかったというのです。ところがその日に頂いたお弁当がを頂かずに持って帰った。それがちょっとばっかりこうまあ粘りがきたり、臭いのするようなのが中に入っとった。まぁそれでも「体無いけんちゅうて食べた。ところがその腹痛を起こしてから下痢を起こした。もういよいよ有り難くなくなった訳ですね。ところがですそれ以来もう長年の秘結がですね、今日までずっとおかげを頂き続けておると言う事を昨日、西岡先生にお届けがあったそうです。
でそれからこっちというものの、私の方のおかげは月次祭の時にもお話しましたように、大きな材木が倒れたあの材木屋さんですから、倒れかからんならんと材木の方が避けてそのう倒れると言った様な。もうそれはもう実にシャープなおかげを頂き続けてです、最近では奥さんの方が一生懸命ならせてもろうてです、もう本当にこげな有り難い神様が、この世にござったじゃろうかと思いよります」というて、四十分間その自分の有り難いと思うとる事を話されたと言う事です。
だから信心はお参りをしよっても、その有り難さに触れられない間は、人の有り難いやら、それこそ涙を流して話しよると、却ってこっちの方が身震いのなるごと嫌ぁな感じがしたというのです。そうですよね。信心が薄かったなら方達に、ほんとに有り難い有り難いちゅうて、あなたバカじゃなかじゃろうかというごたる時代がありますよ。けれども自分が一度いよいよおかげを頂いてみるとです。
昨日なんかはもう、あちらは水道がなかなかあのう五分間、蛇口を捻って五分間ぐらいしなきゃ水が出らん。チョロチョロチョロとしか出らんそうです。ところが昨日、ある事を本当に有り難い、今まで有り難く思えなかった事を、有り難いと思わせて頂いたらです、もうそれこそ、捻ったらジャ-ッと出るようになった。もうこげな不思議な事があるだろうかと。
私がもう有り難い有り難い思やもう、次から次と有り難い事が続いておるというのです。だから例えばなら現世におってもです、んなら信心のない人また真の信心の喜びに触れきっていない人達はです、もうその難儀な事が当たり前と思うて。御霊の世界に入って魂がですよ、もう魂の世界からこっちはあの世ですよね。言うならあの世でまぁ大変苦労したけれども、死んでから極楽へ行こうと思とったところが。こちらもやっぱり真っ暗闇であった。だからそれはもう当たり前になっておる。
あの世で言うならとにかく、結局この世は苦の世苦の世界だと言う事をです。もう当たり前のようになっておる人達に、分からせようとするのが信心であり、合楽示現活動なんです。そこでいわゆる、一遍でん二遍でんこげん有り難かと言うて、聞かせて分かるもんじゃないと言う事。それこそ生まずたゆまずの信心の実をあげて、そしてその実意をもって愛の心をもって、この世は決して苦の世界ではない。こういう有り難い光明世界である。極楽の世界である。
こういう喜びの世界であると言う事を、この分からせると言う事が合楽示現活動に参画すると言う事ですからみやすい事じゃない。却ってそれこそまぁ親戚の方に反対大変をする人が、その坂井さんの場合あるそうですけれどもね。もうそれを繰り返し繰り返しこんなに有り難いそらあんたふがよかってこうね言うそうです。けれどもふがよかってちゅう事はこげん続いてあると思うの、と言うてまぁ話したと言う事でございます。
昨日の松村さんところの、言わばお婆さんに当たります、その御霊様もです、それこそもう真っ暗い中におられるけれども、それがもう当たり前と思うておられるところに、思いも掛けない大きな力持ちの人が、その扉を開けてくれた。私はその力持ちと言う事を、これはまぁ私の事だと、自分で私は思いました。なるほどこの世でも人を助けると言う事は、力がなからなきゃ助けられないように、あの世は御霊の世界で、御霊を救うとか助けるとかと。
さぁお経をあげてもらえば、ご法事をすれば、仏事をちゃんとすれば助かる、そんな生易しいものではないと言う事です。だから私が半分こう開けただけで、中に光明が差し込んだ。それをいよいよ自由にするのは、松村さんこれからはあんた達遺族の者の信心による事だよ、という御理解でした。そこでならどういう信心をさして頂いたのがよいかというと、なら今日の御理解のように、つけ焼き刃の信心じゃいかん。その身から打ち込んでのひとつ信心にならなければならないと言う事であります。
昨日私はご心眼に頂きましたのはあのう、「竹とんぼ」ね。皆さん知らん人もあるかもしれませんね。ようあげな竹とんぼって、子供の時自分で作りましたよねお互い。その竹とんぼは右左をこう削らなきゃいけませんね。プロペラのようにこう削りますよ。その削り方がまだ厚い。そして中、にはお箸のごたる大きな足が付けてある。だからこうしたって上がらん訳。薄く削っとらんから。
そればこうやって皆さんこうやって、自分の手でこうやって跳ね上げようとしてから、もう上がる事は上がったばってん、足が太いもんですからお箸の方が太かもん。だからこうこうどてっと上から落ちて来るところを頂きました。結局竹ということは、私は素直と言う事だと思うです。だから生まれつき素直という人はありますけれども、生まれつき素直であると言った様な事で、おかげが頂けると言う事はありません。
あの人は仏様のような人、神様のような人と言うても、結局難儀な事が起こって来ると、と言われるようにただ生まれつき素直だとか、生まれつき根性が悪いとかと言った様な事は、信心には関係はないです。どんなに根性の悪い人でも、信心によって根性が改まる。どんな素直な人でも信心によって素直さが磨きをかけられた時に、始めておかげが受けられる。その為にはこの右左をです、言わば薄く削らなければいけないと言う事。
私の弟に実というね三歳、数え年の三歳で亡くなりました、あのうのがおります。私はまだまだ子供でしたけれど、亡くなる時に枕元でみんな、親やら親戚の者が集まりましたがね。その「ポンが欲しい」ラムネの事を「ポン、ポン」て言うたんです。ラムネが欲しいと言うんです。それでラムネをあれあの、母がこう抜いてやりましたら、少しばっかり飲んでね、それをこう手で押しやるんですよ。
親のところへ。もう飲めといわんばかりに。そしてからやるとまたこう押しやってからその、枕元におるもんにみんな一口ずつ頂かせましたんです。そして自分があの頂きました時に、もう本当においしそうな顔をしてから。子供心に私は覚えておりますがね。眠るように亡くなりました。肉腫ガンでした。顔がこんなに腫れましてね。もう本当に可愛そうな病気ですね、あの肉腫ガンというのは。
ですからこの人が立ち日とか、あのいわゆる式年祭の時にはもう、どんなあのラムネが無い時でも、どっからか探してから過疎のラムネをお供えをするんです必ず。昨日その霊祭の時にその事をしきりに思うんです。そこでなら昨日松村さんがですねお婆ちゃんが好きであった、あれもこれもと思い心を寄せて、親戚の方達もお供えをさせて頂いてね。そういうなら沢山なお金を使うて、御霊様がお喜びなさるようなお供えをすると言う事。それが身を削る事です。それが神様に通じ御霊に通ずるのです。
もう日々鏡餅ついてそれでんかお供えすりゃ良かじゃなくて、その上にです「お婆さんがあれを好きだったから」と、というて思いを込めて甘い物が好きであったなら甘い物。辛い物が好きであったなら辛い物を作って、お供えをさしてもらうと言う様な言うなら心がですね。それが例えいくらお金がかかってもです、そうさして頂くことが身を削る事になるのです。みなさんが日々ね、例えばお供えをなさるお初穂をなさると言う事は、それは身を削っておられる訳です。
素晴らしい事ですだから。同時にんなら心を削る。これはいよいよ磨いて行こう、改まって行こうというのが身を削り心を削りして、ひとつの素直な心であっても、それをとんぼにしていくのです。とんぼと言う事は、素直という心。両端をこうやって右左に削ってあると言う事は、いわゆる「身を削り心を削りしていけよ」と言う事である。足がお箸のごと大きな足じゃいかん。これをちょうど適当に削って、言うならば足を軽うしなければいけないと言う事である。
どうでしょうか。足を軽うと言う事はね、合楽にお参りする事が、もう楽しゅうしてこたえん。足を軽々とお参りをしてくるという信心です。これをお願いせんならんけん参らんならんというのは、もうやっとかっと参ってきよるとですから、足がお重かというのです。だから教会というよりか信心の稽古において、教会参りをさしてもらうと言う事が、足が重い事ではいけない。
削り方が足りないのではいけない。同時にならこの竹とんぼを上げる時にです、こうやって自分の力で上に跳ね上げるのじゃなくて、ただ合掌してこう捻りさえすれば、ひとりでに上がって行くのが竹とんぼです。素直な心両端を削る事。足を軽うする事。そして拝む事。一生懸命祈念をこらす。自分の力で上に跳ね上げるのじゃない、ただ一生懸命これを捻りさえすれば、竹とんぼが上がるようにです、信心も向上して行くおかげも勿論向上して行く。そしてこの世にこのように有り難い信心があっただろうか。
知らん事とはいいながら、今までは人が有り難い有り難いと言うておるのを聞いて、かえって気持ちの悪かごたったが、実際おかげを頂く事になって来たら、自分自身が誰にも彼にも伝えにゃおかれん、話さずにはおられんと言う様に有り難うなってきたというのです。そういうところからです、私は「その身から打ち込んだ信心」というのは、そういうおかげが受けられると思うです。
しかもこれが家族勢を揃えてそういう信心に足並みが揃うた時です、この二十四節にあるところのです、普通ではどうにも出来ない問題でもです、その家族中の者が勢をそろえて、1、2の3で持ち上げるのならば、どういうおかげでも頂けん事はない、おかげが頂けるぞという風に教えてあるのです。皆さんひとつその竹とんぼの事を思うてご覧なさい。そして自分の後ろにです。
その御霊様が、例えば真っ暗い中におっても、それをもう当たり前の事ようになっておるように、私共の周辺にはもう難儀とか苦労とかはもうしょんなかと諦めきってこの世は苦の世だ苦の世界だにしてしもうとる人が沢山あろうと思うです。そういう人達に合楽示現活動をさせて頂くというおかげを頂く為には、まず私自身がです。本気で有り難くならせて頂くおかげに扱わなければならんと言う事であります。
そして初めてですそれこそ、青年会の場面の中にもあったように、どういう極寒であろうがです、どういう酷暑であろうがです、酷暑なら酷暑に咲く花がある。極寒には極寒に咲く花があるように、どういう中にあっても喜びの花が心に頂けれる、それが信心なんです。そういう信心をです、私はその身から打ち込んだ打ち込んでからの信心からでなからなければ頂けん。
いくらお参りをしておってもです、有り難うならんならんこれがと、言うだけからの信心からではです、いわゆる足が重いです。銀行に金借りに行くような気持ちで、ここにお参りしてきちゃいかんです。それこそ銀行に金ば預けるごたる、足軽々とした楽しい喜びをもって、お参りをさして頂くような信心がです、いよいよその身から打ち込んだ信心と、言う事になるのじゃないのでしょうかね。
どうぞ。